雑記、18

 雨よりは晴れが好きだと思う。


 オタクにしては珍しく(最近は普通のことかもしれないが)、運動が好きで、昔から運動部に所属もしていた。競技そのものにのめり込むタイプではなかったが、体を動かす行為そのものは好きだ。

 自転車に乗ることも好きで、必要であるとはいえほぼ毎日乗っている。日平均20kmは下らないので1年で1万km近く乗っている計算になる。道理でガタが来ているわけだ。

 そういうわけで、雨はあまり好きではない。動けないし、面倒だし、洗濯物だって乾かない。まあ雨の中でもゲームセンターは開いているわけだが。


 それとは正反対に、好きになるキャラには雨が似合う子が多いなと感じる。

 真っ先に思いつくのは最上静香…ではなく三峰なのだけれど。まあ最上も似合うとは思うが、三峰には一歩遅れをとっていると感じる。というか三峰が雨と合わせることを前提にしているかのようなキャラ造形をしているが故だと思う。パーソナリティに雨を冠しているような女と張り合うのは無理筋というものだ。

 話が脱線した。まあ他の好きなキャラにも雨が似合う子が多いと思う。暁美ほむらのトラウマたる心象風景は雨に沈むまどかだし、梅木音葉はそういった自然現象との親和性が極めて高い。まあ、僕自身がある程度憂いを帯びたキャラが好きな事が多いのにも起因しているのだろう。


 晴れと雨は対比の関係にある。

 厳密に言えば晴れと曇りだとか、雪だとか、そういったものも当てはまるのだろうけれど、天気を用いて対比するペアを作れ、と言われれば大多数の人間は晴れと雨を提示するだろうし、そういうものとして認識するだろう。

 晴れにネガティブなイメージがつくことはほとんどない。光と闇、希望と絶望、勝利と敗北、etc… よっぽど捻くれたオタク以外は左方の要素が晴れに当てはまると解釈するだろう。


 雨がキャラの要素として入ってくるということは、即ち陰りを帯びた一面のあるキャラだ、ということだと思う。一々詳細を説明するのは面倒なので省くが、前述したキャラは例外なくネガティブな要素を抱えている。

 そもそも、ネガティブな要素を持たないキャラの方が珍しい、という話がある。正直反論のしようがないので、都合のいい解釈ということでどうか。


 絶望に押し潰されるキャラクターはかなり好きだ。

 肉体的にはまだ動けるままに、無力さを理解らされて自ら抵抗をやめ嗚咽し続けるタイプの奴がぱっと思いつく中では最も好みだ。犠牲になるのは本人以外の全てであってほしい。

 言うまでもなくこれは性癖の話なのだけれど、性癖とは不思議なモノで、相反する2つのモノが両方刺さるという事が往々にしてある。

 実際、希望と絶望なんかはその例のひとつで、僕は打ち拉がれる物語が好きなのと同じように、希望と正義が勝つ物語にもまた感動を覚える。勿論そのものの質には依る。


 一概にどちらが好き、とは言い切れないと感じる。そもそも相互に高め合う作用がある以上、どちらかだけを得続けていればいつかはそれを尊いものだと認識できなくなる。常勝の存在の勝利に感動は無いし、最初から全てを諦めた存在が惰性で絶望へとひた走る物語というのはカタルシスに欠ける。


 前文でそう言っておいて、という話はあるが、僕は正義が勝つストーリーの方が好きな質だと自認している。本質がそちらに傾けられているかはわからない。

 自分の内面の話になるが、努力は報われるべきだと考えている。

 研鑽を積み重ねた人間はその分成長が得られて然るべきだと思うし、逆に不正な方法で利を得ようとする人間は罰を受けるべきだと思う。もっとも、僕自身は後者にあたる立場だと考えているのだけれど、全てに平等に評価が下るのであれば自分も相応の罰を受けるべきだし、そうありたいと思っている。

 そういうわけで、やはり努力をしたキャラクターはその分報われてほしい。他人のために奔走した結果が虚無というのでは、何ともやりきれないだろう。(それが物語のスパイスとなるという面は勿論ある。だからこそ僕はそちらも好きだ。)


 着地点が見えなくなったのでおわり。

 北上麗花は晴れのキャラクターというよりは、曇天の中で満面の笑みを浮かべているキャラクターだと思う。